羅針盤
特定の人物と恋仲にならずにハッピーエンドを迎えたifストーリーです。
本編クリア後にお楽しみください。
「『自分が『死に戻り』をしなかったらどうなっていたか?』
……また妙なことを考えるなぁ。キミって、前しか見てないイノシシみたいな子だけど、たまーに後ろ向きになることあるよね。それってなんなの? 情緒不安定? 『お前に言われたくない』……あーそうですか。
『死に戻り』ってどのタイミングの話? ……ああ、キミが8年前まで戻った時のことか。確かにあの『死に戻り』は、大きな影響を及ぼしたみたいだね。
アカシックレコードを開いてみるといい。ほとんど崩壊してしまっているけれど、再計算くらいはできるはずだ。……どうなっても知らないけどね」
8 years ago ―― Tyril I Lister
あまりのことに、ティレルは思わず息を飲んだ。
恐怖に近い驚き。嫌な苦味が口の中に広がる。
「前にも申し上げたはずです。俺は……王族は殺さないと」
「ああ、聞いたな」
窓際に飾られたガーベラを愛でながら、主は頷いた。ティレルはやや声を荒らげて、「なぜ」と聞き返す。
「『なぜ』? それはこちらの台詞だ」
王子コンラッドは、心底分からないという顔をする。
「なぜ、俺がお前の言うことに従わなくちゃならない? ……なぁ、考えてもみろ」
ふっと声色が変わった。
ティレルは知っている。この2歳年下の少年は、非道なことを命じる時ほど、声に優しさをはらませてくることを。まだあどけなさの残る顔立ちに、うっすらと狂気が滲む。
「ルーシェンのような無能なグズが、間違って王になってしまえばこの国は終わりだぞ? 今アレを片付けることは、国を守ると同義。イシク族として正しい行いだろう?」
「『無能なグズ』を殺す必要がどこにありますか。主要の国家事業を任された貴方の地位は、すでに盤石なもの。ルーシェン殿下を殺しても、何の益にもならない」
「そんなことはない! 俺が楽しめる」
コンラッドはにっこりと微笑んだ。
まるでみぞおちを刺されたように、ティレルはか細い息を漏らす。
「貴方の楽しみのために、弟君を殺せと……?」
主君の過ちをとがめるのも臣下の役目、そう誰かが言っていた。ティレルも同意見だった。主が正しい道を歩めるよう、お支えする。それが正常な主従関係だろう。これがコンラッド以外なら、主の気分を害さぬよう配慮しながら、うまく丸め込むこともティレルなら容易にやってのける。……コンラッド以外ならば。
ガーベラの花を、コンラッドは握り潰した。白い花弁がはらはらと散っていく。
「正体を見破られてはいけないよ。……イシク族の復興を前に、投獄なんかされたくないだろう?」
「殿下……」
「ああ、そうだ。もう一つ付け加えておくと、今はヘビたちが活発な時期なんだ。もし逆らおうというなら、覚悟しておいた方が良い。……俺ですらあまり気乗りはしない」
その時、ドアをノックする音がした。来客だ。
姿を見られぬよう、ティレルはすぐさま隠し扉に駆け込む。そのすぐ後、壁越しに貴族らしい男たちの声が聞こえた。
「コンラッド殿下! 聞きましたぞ。先日の大嵐で家を失った者たちに、多大な援助をなさったとか」
「誰よりもいち早く駆けつけてくださった貴方様に、民は皆、感謝しています」
貴族らの賛美に、コンラッドは困ったように首を振る。
「それくらいのことで感謝されてもな。まだ足りないくらいだと思っているのに」
「と言いますと?」
「嵐程度で家が倒壊したのは、建築に問題があったからに他ならない。建築法の見直しと修繕のための補助金を出すべきだと、父王に進言するつもりだ」
「なんと……! そこまで考えていらっしゃるとは、感服いたしました」
「素晴らしいです、殿下!」
ティレルにとって主への賞賛は、胸のざわめきをおさえる特効薬であり、両足を繋ぐ楔でもあった。
第二王子は、政治にまったく興味を示さない。第三王子は病弱で長くは生きられないだろう。どちらも王の器ではない。
その点コンラッドは、まだ王子という身分にありながら、私利私欲にうごめく貴族たちの弱味を握って、巧みに操作している。権力を誇示する教会とも対等に渡り合う技量がある。
この国を導けるのは、彼だけなのだ。……主が太陽のように輝くたびに、ティレルは安堵する。彼に従うことは、イシク族の『正義』なのだと。
「……『王族の繁栄』こそ正道……。女神の末裔の影として生き続ける……」
暗い影に身を溶かし、ティレルは己に言い聞かせるように――呪うように――呟く。
「……俺は……イシク。イシク以外の何者にも、なり得ない」
After Anastasia's death ―― Crius Castlerock
昨晩、異端審問官によって処刑が執り行われた。
処刑されたのは、赤い髪の少女だった。
「……クライオス、何をぼんやりしておる」
とがめる父の声に、クライオスはハッと顔を上げた。
「申し訳ありません、父上。少し考え事を」
「何を考えていた」
「昨晩の火刑のことを。父上もご存じでしょう? コンラッド殿下の婚約者だったという」
「そのことか……。確かリンゼル家の者だったな。知り合いだったのか?」
「2度ほどお話ししたことがあります」
クライオスは記憶を探りながら、疑問を口にする。
「彼女の髪。もっと暗い色だったと思うのですが、処刑の時は見事な赤だったのです。あれはどういうことなのでしょう」
「そんな下らないことを考えてる場合か! てっきり私はガルダのことで悩んでいるのだと思ったぞ」
父は眉間に皺を寄せ、クライオスを怒鳴りつける。
「せっかく産卵したというのに、孵らなかったそうじゃないか。赤いガルダが生まれるどころの話じゃない。一体何のために翼騎士団に入団したんだ?」
「…………」
「命に関わるんだぞ! なぜそう冷静でいられるんだ!」
怒鳴るだけでは怒りはおさまらず、父親は拳をテーブルに打ち付ける。
なるほど、父上はそのことでずっと苛立っていらっしゃるのか。クライオスは心の中で納得すると、意識して声色を父に合わせた。
「もちろん焦っています! 当然ではありませんか。父上の前だから、何とか気丈に振る舞っているのです!」
「そ、そうか……すまない。私は、てっきり……」
クライオスの勢いに気圧され、父は黙り込んだ。侯爵家の豪奢な室内に、しばらく沈黙が流れる。
「いいか、病のことは絶対に誰にも悟られるんじゃないぞ。お前が人々に忌避されるところなど、私は見たくない」
弱々しく話す父の姿に老いを感じながら、クライオスは静かに頷いた。
「……分かっています、父上」
父の私室を出るやいなや、色鮮やかなドレスが目に飛び込んできた。
「クライオス! お父様とのお話長かったわね」
「姉上。ええ、まぁ。ただの世間話ですよ」
「なぁんだ、てっきり縁談でもきたのかと」
「クライオスもいい年ですからね。そういうお話もあって不思議はないわよね」
「あ、縁談自体は来てるらしいわよ。なぜかお父様が止めてるみたいだけど」
「そうなの? 私のときは――」
3人の姉たちはクライオスを取り囲んで、華やかにさえずりを交わす。父にはうるさいと不評だが、クライオスはこの賑やかさが嫌いではなかった。私生児である自分を受け入れてくれた姉たちには感謝しかない。
とはいえ、これ以上騒いではドアの向こうの父がますます機嫌を損ねてしまう。クライオスは姉たちを中庭へと移動させた。
「姉上たちが揃っているのは珍しいですね。何かあったのですか?」
「貴方が帰ってくるってお母様から聞いたから、集まったのよ。貴方という子は、翼騎士になってから、なかなか屋敷に顔を出さないのだから」
「副団長って忙しいの?」
「あ、目の下にクマができてるわ! 眠る時間もないの?」
「いえ、これは……」
「疲れには糖分よ! ちょっと、あれを持って来てちょうだい」
姉が合図をすると、メイドが大きなケーキを持って現れた。
「貴方のために特別に作らせたの。イチゴの乗ったケーキ、小さい頃から好きだったでしょう?」
「クライオスももう大人だから、ケーキはどうかとも思ったんだけど……」
「とんでもない。ありがとうございます、姉上がた」
甘いケーキに舌鼓を打ちながら、楽しいひとときは続いた。
そして帰り際、姉の一人が神妙な面持ちでクライオスに耳打ちした。
「結婚したい人ができたら言うのよ。私たちがお父様を説得してあげるから」
「ありがとうございます。でも今のところは、大丈夫ですよ」
「そう……? 貴方が選んだ人なら、みんな大歓迎よ。楽しみにしてるわ」
屋敷を出ると、クライオスは詰め所には戻らず、森に立ち寄った。街から近いわりに人がいないこの場所は、ぼんやりするには絶好の場所だった。
「……結婚、ね」
父の叱咤よりもずっと、困惑させられる話題だった。
クライオスは近くの葉をちぎると、おもむろに口に含んだ。
姉たちが自分のために選んだケーキと、葉。どちらも同じようにしか感じられない自分には、結婚など縁遠い話だった。
誰かを愛することも、喜びも痛みも知ることなく。きっと自分は、空虚なまま死んでいくのだろう。……あの少女と違って。
鮮烈な赤が脳裏をよぎる。
燃えさかる炎の中。あの少女は、最期に何を叫んでいたのだろう?
The future ―― Zenn Sorfield
彼を不幸たらしめるもの、それは優しさにあった。
もう誰とも関わらないと心に決めても、流れる涙から目をそらすことは出来ず。
傷つけられることがあっても許してしまい、人の悪意を弱さなのだと受け入れてしまう。
どんなに親しくなっても、老いず病まずの身体であると知られる前に関係を断ち切らなくてはならない。望まぬ流浪を強いられながら、ゼンは生きていくしかなかった。
『離別が前提の関係など、築くべきじゃない。関わりさえ持たなければ、寂寥の風が心に吹くことはない』
それは、繰り返し繰り返し自分に言い聞かせてきた教訓。これまで活かされることがなかったが、ゼンの心に変化をもたらす出来事があった。
始まりは、ヒストリカ国だった。
どの国よりも慣習に縛られ、どの国よりも差別的で、ゼンにとっては生きづらい土地だった。しかし多くの別れに心を蝕まれた彼は、道の隅に座り込んだまま動くことが出来なくなっていた。
そんな時に手を差し伸べてくれたのは、若い騎士だった。
ゼンに住む場所と食うものを与え、ヒストリカという国のことを教えてくれた。純粋な善意かと思えばそうではなく、男は笑顔で無理難題をふっかけてきた。そして紹介された彼の友人という切れ目の男にまで、こき使われることになった。
つかみ所のない、妙な2人だった。しかし不思議とウマが合った。途中泣き虫の王子に雇われるなど、ヒストリカでの日々は、思いがけず賑やかになった。
途中で身体のことを隠し通すことが難しくなって、結局彼らのもとも去ることになったが、あの頃を思い出すと、色あせた景色は輝きを取り戻した。
そこから10年以上経ったある日。別の国に滞在していると、偶然2人と再会してしまった。順当に年を重ねた彼らと、変わらない自分。驚き戸惑ったのは、ゼンの方だった。
彼は「元気だったか」と笑いかけ、彼は「薄情者め」と罵って、再会を喜んだ。
……ゼンは逃げた。秘密を知られたことに気が動転して、逃げてしまった。
逃げる必要などなかったかもしれないと、そう冷静に考えられるまで時間を要した。きっと2人は、以前からゼンの身体に気付いていたのだろう。だから偶然この姿を見かけても、一切驚かなかった。むしろ偶然ですらなく、自分を探しにきたのかもしれない。
「最近ヒマでしょうがないから、久々にお前で遊んでやろうと思った」そんな憎まれ口が聞こえてくる気がする。
散々悩んだ末、ゼンは2人に会うためにヒストリカに戻ることに決めた。けれど、二度目の再会は果たせなかった。彼らはすでにこの世にいなかったのだ。一人は病で、もう一人は咬傷が原因だった。
たとえ分かり合えたとしても。
受け入れられる奇跡が起きたとしても、誰もが自分を置いていく。
「俺はもう独りでいい」
そうして彼は人であった部分を切り捨てて。
流浪の旅人から化物へと、その身を堕とした。
8 years ago ―― Lucien Neuschburn
終わりの日が来たのだと、ルーシェンは悟った。
これまで、ただひたすら生き残ることだけを考えてきた。死の予感が拭えたことは一瞬もなかったが。……予感は確信に変わった。
背後に、何者かの気配を感じたところまでは覚えている。その直後意識を奪われ、次に目を覚ました時には縄で縛られていた。目隠しをされているせいで自分がどこにいるかも分からない。
けれどこれから起きることは分かる。殺されるのだ。
刺客を放ったのはどちらの兄か。あるいは、弟妹の背後にいる者たちかもしれない。誰しもにルーシェンを殺す理由はあり、実行する力もあった。
しかし彼のほうには、身を守る術がなかった。ただそれだけのこと。
無力で病弱で引っ込み思案な性格。王位継承権はあるものの、城内にも市中にもルーシェンに期待する声はなかった。
それでも、手を差し伸べてくれる者はいた。
「また兄たちに苛められたのか? 可哀想に」
そう優しく囁くと、父は大きな手でルーシェンの金髪を撫でた。金髪はノイシュバーン一族の特徴。しかし受け継いだのは子供の中でルーシェンただ1人だったので、父はルーシェンを特別可愛がった。ぽろぽろと涙を流していると、よく慰めてくれた。
王である父は自分の味方。きっと兄たちの嫌がらせも、父がたしなめてくれるはず。この辛い日々は、遠からず終わりを迎えるだろうとルーシェンは信じていた。……けれどそんな日は、いつまで経っても訪れなかった。
偶然耳にした臣下たちの会話の中で、ルーシェンはその答えを見つけた。
「王はルーシェン殿下のことをとても可愛がられているが……あれは息子というよりペットだな」
「弱くて可哀想で従順、しかもあの愛らしい顔立ち。確かに愛玩するにはちょうどいい」
冷たい真実が、ルーシェンの心に深く突き刺さった。
思えば父が声をかけてくれるのは、ルーシェンが泣いている時だけだった。苛められたことを伝えたとき、可哀想だと言いながら目の奥には悦びのようなものが見えた。あれは、気のせいではなかったのだ。
……近くから、剣を抜く音がした。人の息づかいのようなものも感じる。せめて叫び声は上げまいと、ルーシェンはきゅっと唇を噛みしめてその時を待った。
投げかけられたのは、意外な言葉だった。
「殿下……お逃げください」
「え……?」
刺客はルーシェンの縄を解いた。
「目隠しは俺が立ち去ってから外してください。もし貴方が俺の姿を見たら、殺さなくてはいけなくなる」
刺客の声に聞き覚えはなかった。ずいぶん若いらしい。澄んだ、綺麗な声をしている。はっきりと聞こえていたのに、言葉の意味を理解するまで時間がかかった。
殺す寸前まできたのに、逃げろという。
試されているのか、それとも余興のつもりなのか。
「殺したいなら殺せばいい」
助けたり、殺そうとしたり。振り回されることに苛立って、ルーシェンは無性に死にたい気持ちになった。
「気まぐれか何か知らないが、どうせ今生き延びたところで、いつかは殺されるに決まってるんだから」
最後まで言い終わる前に、ドンッ! と背中に衝撃が走った。どうやら思い切り蹴られたらしい。その勢いに耐えきれず、ルーシェンは地面に倒れ込んだ。
「甘えんじゃねぇ!!」
罵声を最後に、あたりは静かになった。
目隠しを外すと、そこにはもう誰もいなかった。ルーシェンがいたのは王城の倉庫。扉は開いたまま。冷たい夜風が吹き込む。
「ぼくが……誰に甘えてるっていうんだ」
ルーシェンは拳を地面に叩きつけた。
まがい物であったとしても、父王の寵愛があるから何とか生きてこられた。けれど今後、成長して子供らしい可愛さを失ったらどうなるのだろう。そう思うと、食事が喉を通らなくなった。小さく、弱く在り続けることは、唯一残された処世術なのだ。
しかし、先日の試験でコンラッド兄上よりも良い成績をとったことは悪手だった。あそこで目立ったせいで、こんな目に遭ってしまったのだろう。
誰とも敵対せず、逆らわず、従順に、己を殺して。偽物の愛にすがって生きていく。……それが自分にふさわしい生き方なのだ。
「アナスタシア殿……」
彼女の名前を呼んで、胸が苦しくなるようになったのはいつからだろう。昔はあんなに幸せな気持ちになれたのに。
何度も送った手紙。元気ですか? 今何をしていますか? 会いたいです。
返事は、一度もこなかった。
弱くて泣き虫のまま、成長しない自分に呆れているのかもしれない。嫌われたのかもしれない。再会を望んでいるのは自分だけなのかもしれない。忘れてしまったほうが、ずっと楽なんじゃないか。そう何度も思ったけれど、強く明るい眼差しを忘れることは出来なかった。
気がつくと、彼女だけが生きる理由になっていた。
ドアの隙間、朝日が差し込む。清廉な光に、ルーシェンは目をそらしうつむいた。
愛玩動物としか思われず、弱さに縛られ、約束にすがり、思い出の少女にかすかな希望を抱いて。
ルーシェンは10歳になった。
「あーー! アナスタシアが泣いてる! イシュ、何やったの!?」
「別に何もしてないけど」
「ウソばっかり! アナスタシア、大丈夫? またイシュにいじめられたんだね……」
「いじめてないし!! ただこの子が――」
「泣いちゃってかわいそう。嫌なことは全部忘れちゃおうねっ。…………」
「その何かあったら記憶消すっての、マジでどうかと思うよ!? ホントお前無神経っていうか頭空っぽっていうか血が通ってないっていうか顔と声以外全部クソ――……」
Present time ―― Anastasia Lynzel
「うるさい!」
アナスタシアは跳ね起きた。寝言とは言いがたい、怒鳴り声を上げて。
怒りと悲しみ、悔しさ。さまざまな感情が嵐のように吹き荒れていた。抑えきれない興奮が呼吸を乱す中――
「……ほう?」
怒気のこもった低音が、頭上から聞こえた。
慌てて顔を上げると、息が止まるほどの冷笑があった。
「会議の最中に居眠りしておきながら、よくもまぁそんな口をきけたもんだな。翼騎士団の教育の質がうかがえる。異端審問会で叩き直してやろうか?」
「も、申し訳ございません……!」
「まぁまぁ、居眠りくらい誰だってするさ。気にするなよ、アナスタシア。……異端審問会には行かなくていいからな?」
ぽんぽん、とクライオスがアナスタシアの肩を叩く。謝罪の言葉を続けようとした時、ゼンが彼女の顔全体をハンカチで覆った。
「うぶっ」
「なにガキみてぇに泣いてんだ。顔拭け」
「ゼン……それは顔を拭いているというより、窒息死させようとしているようにしか見えないぞ」
ゼンの荒っぽい手つきを、ルーシェンがたしなめる。がしがしと顔を拭かれて少し痛かったが、おかげで涙は止まった。
アナスタシアはルーシェンの私室のソファに座っていた。彼女を取り込むようにルーシェン、クライオス、ティレル、ゼンが立っている。
「大丈夫ですか? アナスタシア殿。お疲れなのだろうと思って、声をかけなかったのですが……悲しい夢でも見たのですか?」
ルーシェンの問いに答えようと、口を開いた。けれど肝心の言葉が出てこない。
「何も、覚えてません」
つい先ほどまで、嵐のような感情を抱えていたはずなのに、どういうわけか綺麗さっぱり消えていた。
「まぁ、夢というのはそういうものだよな」
「目からも鼻からも水分垂れ流すほど泣いてるのになぁ」
「!!!!」
「鼻は違う。ティレルのウソを真に受けるんじゃない」
念のため鼻のあたりを確認しつつ、アナスタシアはすっと立ち上がった。騎士団仕込みの綺麗なお辞儀をして、顔を上げたときにはいつもの凜々しい顔つきに戻っていた。
「申し訳ございませんでした。もう大丈夫ですので、どうぞお話を続けてください」
「続けてくださいって、お前、議題は何か分かってんのか?」
「分かってません」
「お前なぁ」
「僕が外遊することになった……というところまでは覚えていらっしゃいますか?」
ルーシェンはアナスタシアのために、一から説明を始める。
「ただの表敬訪問ではありますが、女神信仰の宗主国であるヒストリカが他国を訪れるというのは、ほとんど前例がないことで……反対する貴族は少なくありません。失敗すれば……継承争いに大きく影響する」
ヒストリカ国の王位継承権を持つ王子は、若い時分から政治を学び、行政に関わることを義務づけられている。この時期にどれだけ国に貢献できるかという、次の王を決めるための試験的な意味合いが強い。
「今、補佐として私に同行してくれる者を探しています。閉鎖された国であるヒストリカが変わっていくために力を貸していただきたい。……そこで貴女がたに声をかけました」
「翼騎士に異端審問官に街の探偵。国の代表にしちゃあ、異色のパーティーだよな」
「正攻法では許可は下りないだろう。だからどうしようか、という話をしていたんだ」
「そうでしたね……大変失礼しました」
こういう案件ならば、考えることが苦手な自分は聞き役に徹するしかなさそうだとアナスタシアは思った。ひとまず許可を得ようという段階まで進んでいるということは、5人で赴くことは決定なのだろう。
しかし、ゼンだけは納得がいかないという表情をしていた。
「国にとっちゃ重要な任務なんだろ。こんなメンツでいいのか?」
ゼンはいたって常識的な意見を述べる。
「仲良し5人組の旅行じゃねぇんだから……あ? 何だそのにやけヅラは」
悪友たちの笑みに、ゼンは顔をしかめた。2人が何かを言う前に、ルーシェンが嬉しそうに言う。
「ゼン、僕らと仲が良いと思ってくれていたんだな」
「うっ!」
言葉を詰まらせるゼンの横に、すっとクライオスとティレルが立つ。
「良かったな、ゼン。俺たち以外にも友達ができて」
「カカカ。いやー笑える、笑えるぜ」
「うぜぇ……」
嘲笑するティレルを、ゼンは恨めしげに睨む。
一連の流れを聞いていたアナスタシアは、首をかしげた。
「どのあたりが、笑える部分でしたでしょうか?」
「あぁん?」
「私たちは良好な関係が築けていると思っていたのですが、ティレル様は違いましたか……?」
「うぐっ」
「ティレル様……」
アナスタシアの純粋無垢な視線に耐えきれず、ティレルは話題を変えた。
「ゼン、酒が一番美味い国はどこだ?」
「逃げたな」
「うるせぇ! 考えてもみろ。タダで飲み食い出来るんだぞ? こんな機会滅多にない」
「タダじゃない、税金だ」
「どの国にも美味いものはあるが、オレの好みはリホーだな」
「味覚を取り戻してから、酒の美味さが身に染みて分かったからなぁ……楽しみだ」
「食事も文化の一つだから重要だが、それだけではなくて――」
「ティレルはグリパの酒が気に入るんじゃねぇか。あそこの酒はクセが強い」
「俺は?」
「クライオスは知らん。お前がまともにメシ食うようになったの最近じゃねぇか」
「あの――」
「酒だけじゃなくつまみも外せねぇぞ。限られた滞在時間で、いかに良い店を探り当てるか……」
大人3人の居酒屋談義に、ルーシェンが困り果てている。助け船を出したいところだが、クライオスとティレルを注意するのは何度死に戻ろうとも不可能なので、アナスタシアも黙っているしかなかった。それだけでなく、この3人はこんなに饒舌に話すのかと少し圧倒もされていた。
仲が良いのはいいことだと見守っていると、ルーシェンが痺れを切らした。
「いい加減にしてくれ! 真面目に考えてくれないなら、もう僕とアナスタシア殿の2人で――」
「…………」
「ふた、2人……」
勢いは急速に弱まり、ルーシェンは顔を真っ赤にして黙り込んだ。
「2人で行くってはっきり言い切るなら、心置きなくこき下ろしてやるものを」
「殿下はこういうところが可愛らしいな」
「それ、褒めてんのか……?」
「うううう……」
ルーシェンの目じりにうっすら涙が浮かんでいる。昔より頻度は下がったけれど、気持ちが高ぶると涙腺が緩むのは変えられないらしい。
アナスタシアは一呼吸おいて、話し出した。
「ゼンのいうことはもっともだと思う。文官ではない者が他国に赴いて何が出来るか、明確にしないことには結果を出すことはできないでしょう……」
――イシク以外の何者にも、なり得ない
「私はティレル様ほど怜悧な方を知らない。弁舌に優れ、戦略家でもある。きっと世界中を探しても、ティレル様に勝る者はいないでしょう。貴方がいるだけで、ヒストリカは他国より優位にあります」
――誰かを愛することも、喜びも痛みも知ることなく、死んでいく
「クライオス団長は、人を惹きつける魅力に溢れた方です。それにガルダの知識もある。長年ガルダと共に過ごした団長のお話を、他国の人々も興味を持って聞いてくださるはずです」
――俺はもう独りでいい
「ゼン。私はゼンこそが、もっともこの任務に適任なんじゃないかと思うよ。長い時の中でこの世界を見つめてきたゼンだからこそ分かることがある。気づけることがある。ゼンは、必要だよ」
――偽物の愛にすがって、生きていく
「ルーシェン殿下。いつか語ってくださった夢が叶いますね。目標に向かって真っ直ぐ進む殿下を、心より尊敬しております。……私には分かります。きっとどの国の人も殿下とお話しすれば、殿下のことが好きになる。皆、殿下の夢に協力してくれるでしょう」
一通り話し終えて、アナスタシアは息をついた。あまり喋るのは得意な方ではないのに、なぜかたくさん言葉が溢れた。自分でも不思議だったが、心は晴れやかだった。
4人は神妙な面持ちで黙り込んだ。不快にさせてしまったかと不安になり始めたとき、アナスタシアは「あ」と言い忘れに気付いた。
「それで、私は別に行かなくてもいいかなぁと思っているのですが」
「はぁ!?」
4人は一斉に声を上げた。彼らの形相に驚いたアナスタシアは、おずおずと理由を語る。
「えっと……私は特にお役に立てることがなさそうなので。それなら国に残り、団長の分までガルダの世話をしているべきかと」
「いやいやいや」
「お前がいなきゃダメだろ……」
「え、そうなのか? なぜだ?」
「お前が行かねぇなら俺は酒呑んで帰るだけだ」
「え! どうしてそうなるのですか!?」
「気持ちの問題です!」
「気持ち……」
「要はお前が側にいたら頑張れるってことだ」
4人は懸命にアナスタシアを説得する。アナスタシアは考え込む。
「私はマヤに応援してもらえると元気が出るのですが、それに近いお話でしょうか?」
「ここであのメイドの名前を出すか?」
「まぁまぁ。そうだな、そういう感じだ」
「そもそもアナスタシア殿は役立たずなどではありません! 外交面でも頼りにしたいと思っています」
「女がいた方がいい場面はあるな。たとえば舞踏会で、他国の王子やら貴族のダンスに応じたり」
「ダンスはダメだ、絶対。接触禁止」
「男装させといた方がよっぽど安全……いや、そうとも限らねぇか」
「え? え?」
「そういう話はおいおい……。というわけで」
ルーシェンは全員の顔を見回した。
「外遊には5人で行きます! 反対は認めません」
こうしてルーシェン殿下一行の外遊は決まった。
……旅路の行く末は、それぞれの思い出の中に。